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RSYブログ

2019/06/07
ベターかベストか  
雨がすごいですね。午前中はまだ降らないと思い自転車でスタジオまで行ってしまいました。サドルカバーに裂け目があるので中のスポンジまでびしょびしょです。。

ブログの内容ですが、昨日は優先順位をとらえ、その人にあった選択をできるかどうか、また伝える側の工夫などの話でした。受け取る側の話はまた今度にしようと思いますが、今日はベターとベストの違いについてです。

昨日書いたように、例えば水泳で「どんな泳ぎ方をしたらいいか?」ということに関してベストな方法を選ぶというのはなかなか難しいことだと思います。まずその選んだ方法がベストかどうか判断ができないのです。その方法を試してみてどんなにタイムが上がろうとも、それより良い方法があるかもしれません。逆に今のタイムだけに捉われず後々の成長をより促すための長期的な方法もあったかもしれません。ですのでベストだと思ったことも正確に言えば「ベストに近いもの」と呼べるのではないでしょうか。

これはベストな選択だ、と思わないことのメリットは可能性を残すこと。ベストの意味は「一番良い」ということなので、あることをベストだと思い込んだ瞬間にその先の可能性は途絶えてしまいます。ベスト以上はないのですから。同じことをベターやグッドなものだと捉えておけば伸び代や考える余地が生まれ続けます。向上心も生まれます。身体と心の無限の可能性を妨げずに進むことができます。「できない」「無理だ」という言葉よりも「これがベストだ」という考えの方が成長を妨げてしまうこともあるのだと思います。

ただもちろん上記のことは方法の選択や実践においてであって、過去のことについて全てのことを「ベストではない」と思う必要はありません。過去辿ってきた道はこれ以上でもこれ以下でもない自分の一瞬一瞬の積み重ねですからベスト=ワーストであるようなもの。それなら、その場その場でベストな道を選んで来たと考える方が心が前向きになり、今の活力にもなります。まあこの辺はそれぞれの人生観に関わる話なのでどうにでも考えられるところです。ものの見方は一つではないですから。

ともかく大事なのはヨガの実践においても「ベスト」や「パーフェクト」という感覚には注意が必要かもしれません。それはただ今の自分に「満足する」「満足しない」の話とも別の問題になってくると思います。そしてこの問題は伝える側と伝えられる側の両方に関わることだと思います。

連日のブログがこんなテーマでそろそろ頭が痛くなってる頃だと思いますので、そんな時は身体を動かして頭をスッキリさせてください。明日のアナトミック骨盤ヨガは考える余地もないくらい身体を使っていくのでちょうど良いかもしれません笑

明日の朝は雨が止んでいるといいのですが。。
ではまた。

2019/06/06
優先順位  
暑い日ですね。ただまだ真夏ほどの湿気はないので、暑さも気持ちよく感じます。今日のブログは昨日の続きです。

例えば水泳初心者のCさんに平泳ぎの泳ぎ方を聞かれたとして、いきなり競泳トップスイマーが行っている高度な技術Bを伝えるのはあまり良い方法とはいえません。Cさんが成長して後々技術Bが必要になる可能性はありますが、それを伝えることのデメリットの方が大きいことが多いように思います。ここでいうデメリットは、今必要でない情報にとらわれて成長が妨げられること。しかしCさんが水泳は素人でも物事を見極め優先順位をつけられる方であれば、技術Bについて伝えても大丈夫でしょう。大丈夫どころか技術Bを知ることで練習の明確な道筋を立てることもできるかもしれません。

大事なのは、

1. そのものの本質をとらえた優先順位
2. 伝える側が優先順位を整理できているかどうか
3. 伝えられる側が情報を整理できるかどうか

伝える側は以上の点を把握しながら情報を伝えます。ただ「これとこれとこれをやればいい」というのを伝えてしまうと、受け取った側の頭は情報を並列にとらえてしまい混乱してしまいます。そして結局一番の土台となる部分がちゃんと出来ていない、なんてことにもなってきます。人に合わせて伝える情報はチューニングしなければなりません。その人にとってベストに近い道筋を立てる。(「ベストな」ではなく「ベストに近い」と書きましたが、やはりこの点も難しいところで、何がベストと決めることは出来ないのだと思います。この辺の話はまた次回に。)

この道筋を立てる過程では、前回までのブログで書いた「教科書的なもの」がとても役立ってきます。自分で0から考えたものではなく、長い時間をかけて積み重なってきた先人の知識。長く多くの人に応用されてきた知識や技術はとても有用です。その中から目の前のCさんに有効だと思うものを優先順位をつけて選択します。なおかつCさんもその情報を整理できるよう工夫して伝えます。優先順位の高いものは伝える頻度を高くしたり強調したり工夫が必要になると思います。(僕も試行錯誤の段階ですが。。)

そして人に何かを伝える時は「教える」というよりは「シェアする」という感覚でいたほうがうまくいくことが多いようにも思います。上に書いた「ベスト」を決めることの困難さも関係してくるのだと思います。(この話もまた次の機会に書こうと思います。)

これ以上長くすると話がややこしくなりそうなので今日はここまで。次回以降ももう少し関連した話は続くかなと思います。

暑さに負けないようにお過ごしください。

2019/06/05
絶対的規範  
昨日までは「ら」抜き言葉も見方によれば長い歴史の言葉の変化の一部で自然なことではないかという捉え方もある、という話でした。

一方で昔からあるものを守りたい、残したいと思うのは当然で、古くからあるものと新しいもののせめぎ合いがあるのは当たり前の反応なのだと思います。古いものだけがずっと続いたり、逆に何でもすぐ新しくなってしまっては安定性と流動性のバランスがとれませんから。色々なことが両者のせめぎ合いの中で徐々に変化していくものだと思います。「ら」抜き言葉もその一つで、もはや変化は止められないものなのかもしれません。


そして今回のテーマは「ら」抜き言葉そのものではなく、その捉え方に移っていきます。「ら」有り言葉を絶対的に正しいルールとして人間がそれにただ従うのではなく、「ら」抜き言葉が生まれたことを自然な現象として捉えてその「なぜ?」を考えるという捉え方。

言い換えれば、規範が先に存在するのではなく、現象が先に存在する教科書的な考えが先に存在するのではなく、現象を分析し仮説を立てたのが教科書とも言えます。

わかりづらいと思うのでスポーツの話に置き換えましょう。

僕は水泳を教えていますが、よくこんな質問があります。

「平泳ぎの手はどう動かすのが正しいのですか?」

難しい質問です。というよりも答えづらい質問です。完全にこれが正しいという答えがないのです。平泳ぎをどう泳ぐべきかという唯一の教科書があるわけではないのです。

もちろん平泳ぎの泳法に関するルールはあります。こうしてしまったら失格だとか、競泳にもルールがあります。そのルール内でいかに速く泳ぐか、もしくは競泳でなければ、いかに効率よく疲れずに泳ぐかが上の質問でも問題になってくるのですが、絶対的にこうだという答えはないのです。

平泳ぎはだいぶ前から存在しオリンピック種目にもなっていますが、50年前と今とでは泳ぎの形が全然違う。タイムも比べ物にならないほど速くなっています。ここ4〜5年だけを見ても常に泳ぎは変化し続けています。

さらに同じ時代にあっても泳ぐ人によって泳ぎ方は異なります。同じ人であっても年齢によって泳ぎは変化します。

だからといって教科書的なものは必要ないかと言えば、そうではなく、めちゃくちゃ必要なのです。(「めちゃくちゃ必要」なんて言葉は文法的に間違っていると言われそうですが。)教科書がなければ先人達が研究したことが学べず、どんな分野でも一から自分で考えなくてはならないからです。短い一生のうちにそんな時間はありません。

そしてその教科書的なものがどう作られるかというと現象の分析が元になります。水泳でいえば、

1. Aという平泳ぎの速い選手がいる。
2. Aの泳ぎを分析してみると他の選手と違いBという要素を泳ぎの中で行っている。
3. Bの要素を細かく分析してみると、どうやら水の抵抗を減らすのに効果があるようだ。
4. 平泳ぎはBという技術を取り入れれば速くなる(という仮説)。

4が新たな時代の教科書的存在となります。このように時代によって教科書は移り変わるし、絶対的な規範はないのです。上記のBの技術もこれから廃れていくかもしれない。そこら辺も「ら」抜き言葉と同じように伝統と革新のせめぎ合いなのかもしれません。

そして問題はBの技術が必ずしも誰にでも当てはまるものではないということ。例えば水泳初心者のCさんが楽に長く泳げるようになるためにはBの技術は必要ないかもしれない。Cさんには他の教科書的な技術の方がより必要なのかもしれないし、もしかしたらCさんが自身の目的を果たすために自分自身の練習だけで十分なのかもしれない。

では先程の「平泳ぎの手はどうかくのが正しいのですか?」という誰かの質問に対し、

「正解はないのですから自分で考えてください。」

と突き放してしまうのかといえば、もちろんそんなことはしません。僕もインストラクターとしてなんとかしたいという思いはもちろんあります。

長くなりましたので今日はこれくらいにして、続きは次回に回そうと思います。

2019/06/04
「ら」抜き言葉〜その2〜  
昨日は「ら」抜き言葉も「行かれる」「行ける」などの"ar"抜き言葉の一種なのではないかという話でした。なので「ら」抜き言葉も時代による言葉の変化の自然な流れなのではないかというのが"ar"抜き言葉を研究する言語学者の見解のようです。「行ける」という表現に疑問をはさむ人は現在いないと思います。「食べれる」への批判もそのうちなくなるのかもしれませんね。

「なぜ"ar"が抜けるのか?」についてはなかなか答えを出すのが難しいところだと思います。ただ抜けることによるメリットはあります。助動詞「られる」には可能の意味だけでなく、受身やちょっとした尊敬の意味があります。「ら」抜き言葉はその区別をより簡単にする役割があります。


a)好き嫌いなく野菜も全部食べられる(可能)
b)せっかく育てた野菜が野生の猿に食べられてしまった(受身)
c)先生が野菜を食べられる(尊敬)(「先生が野菜を誰かに食べられてしまう」という間接受身ともとれますが。。)

上の文は状況を説明する語句が多いので、それぞれの意味の違いは母語話者であれば明確にわかると思うのですが、要素を動詞(助動詞「られる」を含んだもの)と目的語だけにしぼってみると以下のようになります。

a')野菜も食べられる
b')野菜が食べられる
c')野菜を食べられる

もはや判別が難しいですね。そもそも元のaの時点でも無理やり受身と解釈することはできます。a'になると尊敬の可能性も入ってきます。(aでも尊敬の可能性もアリかも…?)また格助詞「が」「を」が入れ替え可能なことも判別を困難にします。

ただここで「ら」抜き言葉を使えば動詞要素だけでもわかりやすくなります。

a")食べれる
b")食べられる
c")食べられる

b"とc"は判別できませんがa"は明らかに可能の意味ですね。このように「ら」抜き言葉のメリットも存在します。

こんなふうに書いていくと僕が「ら」抜き言葉を推奨しているような感じがしてくるかもしれませんが、別にそういうわけではありません。「ら」抜きを否定も肯定もしません。僕自身、日常生活で自然に「ら」抜き言葉を使っていることもあると思います。ただメールや手紙などの文書では「ら」抜き言葉は絶対に使わないようにはしています。理由はその方が無難だからです。「ら」有りと「ら」抜きが混同している今の時代には元々あった形を使った方が様々な場面でトラブルなく過ごせることが多いからです。今のところ教科書も「ら」有りが基準ですしね。

そう、この話は教科書的な考えが何たらかんたらというところから始まりました。「ら」抜き言葉を使う使わないは置いておいて明日以降はその辺りに話を戻していきたいと思います。

ともかく「ら」抜き言葉をただ教科書にあるルールから外れているとだけみなすのではなく、一歩引いたところから観察してみるとまた違った考え方もあるのではないかという点だけ伝えたかったのです。

ではまた明日。

2019/06/03
「ら」抜き言葉  
今回は3日ほど前から触れている「ら」抜き言葉についてですが、ヨガのホームページのブログでなんのことやらという感じですね。でもとりあえず話を進めていきます。

「ら」抜き言葉とは「見る」などの上一段活用や「食べる」などの下一段活用の動詞、カ行変格活用動詞「来る」に可能の意味を付け加える助動詞「〜られる」がついた時、「見れる」「食べれる」「来れる」とならずに「見れる」「食べれる」「来られる」となる現象を言います。「教科書的」には入るはずの「ら」が抜けてしまうことは現代の言葉の乱れなんて言われたりもします。みなさんは日常でどちらを使うことの方が多いでしょうか?

ただこの「ら」抜き言葉という現象、抜かれているのは「ら」じゃなく"ar"だった!なんてことが少し前に話題になっていました。
どういうことかというと、

「みれる」→「みれる」
のように「」が抜かれていると考えるのではなくて、

「mirareru」→「mireru」
というように"ar"が抜けていると考えるほうが自然ということです。

そもそも日本語をひらがなではなくアルファベットで分析する方が良いというのは、子音と母音をわけて考えた方が言葉全体の音を考える際には理にかなっているからだと思います。子音と母音が発音される仕組みが異なっているため、身体の構造に関係の深い音の変化などを分析する際には、子音と母音が複合したひらがなは使い勝手が悪くなってきます。

アルファベットはわかったけど"ar"じゃなくて"ra"が抜けてると考えてもいいんじゃないかという声が聞こえてきそうですが、"ar"が落ちたと判断する理由はいくつかあるようです。その一つが五段活用動詞に可能の助動詞がついた場合と比較した時の共通要素。

「行く」の可能動詞は「行ける」
でもご年配の方などは「行かれる」と言うことが多いですね。(年代でやはり傾向があると思うのでこう書きましたが個人差はかなりあると思います。失礼があったらごめんなさい。。)

アルファベットでみると、
「ikareru」→「ikeru」
こちらの場合は"ar"の前に"r"がないので明らかに"ar"が抜けているというのがわかります。

そして「行かれる」などの"ar"有り言葉と「行ける」などの"ar"抜き言葉の共存はもう何百年も前から起こっているそうです。そして元々は"ar"有り言葉だけが存在していたのです。そして現在、ほとんどの若者が「行かれる」ではなく「行ける」を使っていると思います。

こういった五段活用の動詞と照らし合わせてみると「食べられる」→「食べれる」などの「ら」抜き言葉も"ar"抜き言葉の一つとして捉えていいのではないかと話でした。

次回からは「ら」抜き言葉を通したものの見方を考えていきたいと思います。

2019/06/02


昨日はローランジからの後屈の下半身のポイントをお伝えしましたが、今日は上半身の使い方です。

しっかりとした下半身の土台を作った形でローランジをした後は、昨日書いた通りに背中全体を丸めながら上体を起こします。これは腹直筋(6個に割れる筋肉)を使うことで骨盤を後傾させ腸腰筋などの股関節の前を通る筋肉をストレッチするためです。

上体が床から垂直に上がるようになるまでは手はバンザイをせずにお尻の横に置いままでいいと思います。もし上体が上がるようになってきたら手の平を後ろ向きに向けて腕を耳の横まで上げます。そしてお腹には強い力を入れたまま胸の中心を天井に向けるように背中の上の方を反り始めます。

胸を反る時に腰も反り始めます。この時の腰椎への負担をなくすためにお腹の力も入れ続けます。おへそを背骨の方へ引きつける筋肉(腹横筋)も腹直筋も両方とも使います。腹筋でブレーキをかけながら後屈を行うことがポイントとなります。

手を耳の横に上げたあとの肩の使い方ですが、肩を後方に引きながら肩甲骨を背中側で寄せていきましょう。そうすることで腕が後方に向かいやすくなります。また胸椎(胸の裏側の背骨)を反りやすくします。

アゴを胸から離して首を反るのは上記の流れが終わってからで良いと思います。あまり早いタイミングでアゴを上げてしまうと首だけの後屈になってしまうことがあるからです。

以上の流れはこうしなければならないものではなくあくまで一つの参考例ですが、安全に後屈を行うためには段階を踏んで一つ一つの動きをクリアしていくのが良いように思います。急に最後まで行こうとせず自分の力を見極めながら行っていきましょう。

後屈のポイントまとめ〜上半身編〜
・お腹でブレーキをかけながら胸椎、腰椎を反る
・鎖骨、肩甲骨を動かして肩の位置を後方へずらす
・上げた手の平は後ろに向ける(肩関節の外旋を促す)
・アゴを上げるのは最後(上げなくても良い)

ところで昨日のブログに登場させた「ら」抜き言葉ですが「上げれない」と「つけれる」でした。

「ら」抜き言葉についてはまた明日のブログで。言葉と身体の動かし方、まったく関係ないように思えるかもしれませんが、ものの考え方の軸に繋がる部分かなと思いますので、ぜひ「ら」抜き言葉についても考えてみてくださいね。 

2019/06/01


昨日の「ら」抜き言葉の続きはまた今度書きますが、今日は今朝のアナトミック骨盤ヨガで練習した後屈についてです。

アナ骨では脚を前後させたローランジというアーサナから上体を起こす後屈を行います。(動画は一連の流れです)

その際にまず大事になるのが骨盤を後ろに傾けながら(恥骨を前の方に押し出しながら)上体を起こすことです。そうすることでまずは腰を反らずに後ろ脚の股関節の前側を通る筋肉を伸ばすことに集中します。

そのためには後ろ脚の膝はなるべく曲げないように上体を起こしていきたいところですが、相当な柔軟性がないと上半身を上げれないため、膝に多少の緩みをもたせてあげてかまいません。(動画の後屈でも後ろ脚の膝は曲がっています。腸腰筋の柔軟性が高まってくれば後ろ脚の膝がまっすぐにできるようになってきます。)

そして前脚の膝は上体を起こす際にも90度の角度を守ります。上体につられて膝が後ろに引かれないように慎重に動いていきます。お尻も高くならないようにローランジのままの高さを保ちます。

このようにまずは下半身の使い方をしっかりさせることで後屈の土台が作られます。骨盤の前傾と後傾の動きの区別をはっきりつけれるようになることで安全で気持ちのいい後屈ができるようになります。

ローランジからの後屈のポイントまとめ〜土台編〜
・前脚の膝の位置は動かない
・前脚側のお尻を後ろに引く力をかけ続けて骨盤の左右の位置をそろえる
・後ろ脚の膝はまっすぐにするよう努力はするが最初のうちは緩ませておいてよい
・自分のおへそをのぞき込むように背中と腰をまるめながら上体を起こす(恥骨とみぞおちの距離を縮めながら起こす・動画のフォームよりも背中を丸めた方が骨盤後傾を意識しやすい)

ちなみに今回のブログでは「ら」抜き言葉をあえて2カ所で使っています。どんな印象を受けるでしょう?

では後屈と「ら」抜き言葉の続きはまた次回に。明日のHIP JOY YOGAでも後屈のアーサナはいくつか登場しますのでぜひ参考にしてみてください。

2019/05/31
教科書  
今日はヨガやその他のことを学ぶ時に一歩留まって考えたいことの話です。

世の中の多くのことには教科書や教科書のような考え方があったりします。学校で学ぶ教科にもスポーツにも仕事にもそういったものが存在します。1から自分で全て考えるよりも先人達の知恵を借りて多くのことを効率よく学べ、より発展したことを考えたり行ったりすることができます。学問の分野なら研究が進み、スポーツの世界ならどんどん競技レベルは上がり、仕事のフィールドでは能率が上がったり新たなアイデアが生まれたりします。

過去の努力の蓄積から現代にも生かせる知識、ものすごく貴重でありがたいものです。その通りにするとうまくいくことがたくさんあります。

でもそれと同時に頭に入れておいたほうがいいこともあります。

多くのことが仮説だということ。「そうしなければならない」ことではないかもしれないということ。

どういうことでしょう?抽象的過ぎてわからない...

ということでここではまた言語を例にあげて考えていきましょう。みなさんも学生時代習ったであろう文法について考えます。日本語の文法、英語の文法、色々と文法にはお世話になった(or苦しめられた)とは思いますが、文法とはそもそもなんでしょう?文法がなんなのかということを通して最初に書いた色々な分野の「教科書的な考え方」について考えたいと思います。

少し前に日本語の濁点についてブログを書きましたが、今回も日本語についてです。ここ十数年くらいで定期的に話題となる「ら」抜き言葉ですが、自然に使っている人も多いと思います。そもそも「ら」抜き言葉とはいったいどんなもので、何が問題なのでしょうか?また本当に問題があるのでしょうか?学校で「ら」抜き言葉を使ったら注意されたなんてこともあると思います。

「ら」抜き言葉を考えることで色々と見えてくる部分もあると思うので、時間のある時に少し考えてみてください。

では続きはまた今度。

2019/05/30
嬉しい報告〜足首回し〜  
水曜日のRoot Yoga Moveに毎週参加してくれている女性の方からうれしい報告をいただきました。

「レッスンでやっている足首回しを家でも毎日やっていたらヒザの痛みもなくなってきました」
とのことでした。

くるぶしから下の足は直接地面に接する土台で大事な部分。足首を回すことでその土台が整うので、その上にある膝や股関節、腰までも状態がよくなってきます。

身体を整える効果がかなりあるので、レッスンではウォーミングアップとして前半によくいれています。でも今回のように実際に声をいただくと改めて足首回しは効くのだなと気づかされます。

あとはやはり「一回の効果」×「継続」を実践していただいているというのは嬉しいことです。継続することでその効果は何倍にも膨れ上がってくるのですね。

僕も自分で良いと思うことは継続していこうと改めて思いました。

みなさんも感覚的に良いものにはぜひ継続して取り組んでみてくださいね。

2019/05/29
遊びながら思い描く  
今日の午前中のRoot Yoga Moveのレッスン、後半に10分ほど自由練習の時間をとりました。どんなことをしても良い時間で、自分でやりたいことを決めてきます。

そんな中で参加者のSさん(女性)はバカアーサナというアームバランスの練習をしていました。ちょっと前までは安定してできなかったはずなのに足が床から浮いて安定した状態でキープできています。

「だいぶ安定してきましたね。」
と声をかけると、

「いやでも片足をはなすのはできなくて…」
との返答。

「片足??片足をはなすってこのアーサナですか?」
もしやと思いバカアーサナのバリエーションポーズの"エーカパーダバカアーサナ"「片足を伸ばした鶴のポーズ」(今回の写真のアーサナ)を見せてみると、

「はい、それです。本に載っててやってみたけどできなくて…」

とのこと。

片足を離したバージョンは両足のものに比べてかなり体幹や腕の力が必要になります。今は出来なくて当然なのですが、Sさんは僕がだいぶ前に紹介したアーサナ集を見て挑戦してみたそうです。他にも壁を使ったハンドスタンドの練習をしているそうです。

「なんとなく出来る気がして…」

こんな言葉もSさんから出てきました。そして現に彼女の身体機能は去年とは別物です。

今は出来なくても出来ることを想像するというのはすごく大きな力。具体的に想像できたことはたいてい出来るようになります。もちろん目標までの道のりは順を追って進んだいかなければならないところもありますが。

ヨガを練習しているとそういった想像力や道筋をたてる力もついてくるように個人的に思います。

出来ることを淡々とこなすことも大事。出来ないことにも挑戦してみたり、出来ると想像してみることも大事だなと思いました。
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